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monologue #6



何年か前、タブレット端末やスマートフォンの普及とともに「電子書籍」がもてはや

された時期があった。新しい媒体の登場とその未来をメディアは好意的に報道。

「紙の本がデータ化されれば省スペースにつながる。」「オンラインでいつでも好きな

ときに本が手に入り、書店に行く必要がなくなる。」そんな具合に一方的に電子書籍

に肩いれしたバランスに欠けた比較論が横行し、その多くは、電子書籍が発行部数

でも売上金額の面でも紙の本を追い抜くのはもはや時間の問題だ、という結論で

締めくくられていた。

んな馬鹿な。当時、帯広で紙の雑誌編集に従事していた僕は、そうした論調を

目にするたびに心のなかで悪態をついたものだった。温かみのかけらもない

つるつるの電子端末が、物語のもつ温度や空気感を伝えられるわけがない。

電子書籍の登場を歓迎するやつは無数にならぶ本屋の在庫のなかから自分に

呼びかける運命の本を手に取り、ページをめくるときの高揚感を味わったことが

ないのだ。タブレットだかニコレットだかしらないが電池が切れちゃえば電卓にも

ならないお荷物だろう。そもそもITの進歩が人を、人が備えている能力や感情を

退化させてるってことになぜ目をつむるんだ。不便さこそが人を成長させるんだ! 

やっちゃえ日産って、自動ブレーキで逆走やっちゃう老人の暴走は減らないぞ! 

そんな僕の怒りが世間に伝播したのか(そんなわけはない)、いつのまにか電子

書籍ブームは下火になり、その反動のように紙の本が復権してきている。

よかった。本が紙のままで本当によかったと、書店を訪れるたび、そして自宅の書棚

に目がむくたびに僕は胸を撫で下ろすのである。

さて、前置きがずいぶん長くなったが、つまりは単純に「紙でできた本」が好きなのだ。

「中身(内容)がすべてなんだから素材(外見)はなんだっていいじゃない」という意見

にはまったく賛成できない。人はそうでも本は違う。カバーを外した文庫本の簡素で

ざらついた質感や古い匂いがしそうな枯れた佇まいが好き。色とりどりに目を楽し

ませてくれる絵本のカバーも好きだ。見るからに知恵や気づきを授けてくれそうな雑誌

(さいきんのはネタの使い回しばかりで買わなくなったが)の厚み、重さに安心感を

覚える、ほっとする。指先で触れ、手のひらにのせるところから始まり、パタンと閉じて

手を離すまで、目や鼻や手や、身体のどこかしらが本と呼応する。そういう身体的な

感覚のゆらぎを与えてくれるのが紙の本の魅力ではないだろうか。

ちなみに嫁さんもそんな僕と同じか、それ以上に紙の本(いちいち「紙の」って言わせる

この手間…)が好きで、だからHUTTEの計画段階から2人の頭のなかで「活字の世界

にゆっくり、どっぷりと浸れる個人的空間であること」というコアイメージをまず共有

して、そこからインテリアのイメージを膨らませていったという経緯があった。本それ

ぞれが伸び伸びと個性を輝かせる居場所というものをまずは考えたのである。絵本

のように表紙が内容を物語るのなら正面をむくようにしたくて、そのための棚を入口

に用意。背表紙が特徴的なものや文庫は棚差しがいいので、壁に棚板をつけて

その上に。そんな具合。たまに店の雰囲気を変えるために本だけ並べ替える、

そんなこともけっこう意識的に続けていた。ある意味では本がHUTTEの主役だった

とも言える。

そんなぼくらの思いが、どれだけの読書好きを満足させていたか。たしかなことは

わからないが、幾つか、本好きのお客さんが認めてくれた(僕にとっては感動的かつ

決定的な)瞬間が記憶に残っているのでここで紹介したい。

雨に仕事を邪魔されるとひとり、ふらっと現れてカウンターに腰をおろし、深煎りを

すすりながら読書に没頭していたのが、同じ町内で農家を営むKさんだ。手にとる本は

ときに雑誌だったり、ときに古い小説だったりさまざまだったが、あるとき開いた

テリー・ファリッシュ著、村上春樹訳の「ポテトスープが大好きな猫」はとくにお気に

召したらしく、読後めずらしく「家でも猫を飼っていて」と身の上話をされ、それを

きっかけに僕らはちょっとずつ言葉をかわすようになったのだった。「ここは文化を

発信しているよね。頑張って続けてください」との言葉をくださったのもその頃。ただ本

が好きだから置いているだけなのに「文化を発信」なんて、高級なスーツを着せられた

ような感じでむずがゆい。でも口数の少ない人から、しかも地元の農家さんからの

激励はずしんと響くものがあって痺れるような嬉しさに浸ったものだ。

となりまち小清水からしょっちゅう足を運んでくださったKさんはジャンルをしぼること

なく、じつにたくさんの本を購入してくださった。実用書にエッセイ、詩集に写真集と、

そのストライクゾーンの広さに僕はいつも「いや~、いろんなことに興味があるんだ

なあ」と感心していたのだが、ギョーム・デュプラ著の仕掛け絵本「動物の見ている

世界」を「自分用に」買われたときも「おおっ」と思わず唸らされた。さまざまな動物の

目が同じ世界をそれぞれどんなふうに写しているかを最新の研究成果に基づいて

描き分けたこの本を、僕はさいしょお孫さんへのプレゼントなのだろうと受け止めた。

なんといっても絵本だから。でもきけば自分用にとのことで、しかもそうとう気にいった

という。絵本でハッピーになる大人がいることを知って、僕らもとてもハッピーに

なれたというこれも本にまつわる良い思い出のひとつだ。

もう一人。ほとんど会話を交わしたこともなく、名前すら知らないまま残念ながら

離れてしまったが、僕らが2人とも「大切なお客さん」と来店を待ち遠しく思っていた

ある少年と、そのお母さんについてもふれておきたい。小学生くらいにみえるその

男の子はおそらく精神的な疾患を抱えていたのだと思う。とつぜん大声をあげる

ことが珍しくなく、ときにはこっちにまで聴こえるボリュームでおならをしてしまう

ことがあった。でも不思議と嫌な気持ちはしなかった。それどころか、お母さんが

あたふたしながら懸命に場を取り繕う様子もふくめて、なんというか好ましく感じ

られて僕らはいつしか彼らを迎える時間が好きになっていた。

そもそもお母さんにはきっとそれなりの躊躇と覚悟があったはずなのだ、HUTTE

の扉を開くのには。思い過ごしかもしれないけど、いや、いつもおそるおそるというか

縮こまった感じで過ごされていたことを思えば公共的な空間に対するいずらさは

あったはずで、にもかかわらず通ってくれるお母さんのその勇気をおもうと、僕は

ほんとうに誠意をもって迎えなきゃと背筋を正したものである。そんななか、

お母さんが本をしばしば買ってくれるようになると僕はやっぱりすごく嬉しくて、

「これも気にいってくれるんじゃないか」とその子のことを頭に浮かべながら

仕入れた「ゆきのうえ ゆきのした」をその思惑どおりに持ち帰ってもらえたときは、

まるで恋心が通じた瞬間のように浮かれてしまった。今でも読んでくれてると嬉しい

のだが。

閉店後、ひまさえあれば図書館に通い、僕を呼ぶ本を片っ端から手にとっている

うちに世界にはまだまだ読まれるべき名著があることを知った次第。次の空間にも

木の書棚をおいてそこにぎっしりと紙の本をならべたいものだ。

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