「ライフラインだから」。
Tさんは隣町からHUTTEへ足しげくかよってくれる理由を、そんなふうに表現
した。命綱。生命線。飲食店店主の立場においてうけとるならば、「これはもう
そうそう簡単に休むわけにはいかないぞ」と肩に力のはいる(実際はもともと
すくなく設定した営業日をさらに削ったりもしたけど)殺し文句である。言われて
すぐは、「ちょっと大げさじゃ? 」と思わないでもなかった。しかしながら、ほほ
笑みのなかに疲労をにじませた顔で店にやってきては肘掛け椅子に身をなげ、
「ふ~」とか「いや~」なんてふうに深々とため息をついたり、ときにはその姿勢
のままうたた寝しちゃったりと、そんな脱力タイムをすごしたのちに、おもむろに
からだを起こし、入店したときよりあきらかに光の量が増した眼差しで店を
あとにする。そんなプロセスをなんども目の当たりにするうちに、たしかに
この空間をふくむ僕らの提供するものごとがTさんの精神や肉体に積もった
汚れをとりはらうように作用してるんだろう、だからそのままの意味合いで
うけとっていいんだろうなと次第に思えてきたのだった。ちなみに奥さんと
来店されたある日には、その肘掛椅子にむかいあう形で座り、うなずき合い
ながら「もうこの席、露天風呂(と同レベルの癒やし効果がある)だよね」と、
そんなふうに形容されたことも。ライフラインほどパンチはないけど、これ
また「よっしゃ、やってやろうやないか。なんなら布団おひきしましょうか」
ともてなし精神に火をつける、心憎い表現である。
経営者の立場にありながら、みずから得意先まわりを欠かさないバイタリティ
あふれる仕事人間であり、家族の時間をほかのなにより優先し、大切にもする
佳き夫でもあり、2人の娘さんとつねにおなじ目線で会話する心優しい父親
でもある。さらにいえばススキ…いや札幌の飲食業界にとても詳しく遊び人と
しての一面ももっている。いろんな顔を生きている、しかも、どの顔のときも
全力で。そんな印象を、僕はTさんに抱いている。抱きつづけている。
「それは褒めすぎだよ、のだくん」と本人はきっと苦笑いするだろうけれど、
でもものごとをついつい斜めから、それも冷めた目でみてしまう傾向の僕
からすれば、Tさんの言動が発する熱量はいつでもそうとうな高さに
感じられるし、存在そのものがまぶしくうつった。40代男性としてのあるべき
姿のひとつといってもいい。ひさしく会っていないけど、今もそのイメージは
薄れることなくある。食べっぷりもまた豪快なものだった。HUTTEのキッチン
で生産されたものの総量を100でいうと、そのうち60~70%はTさんが消費
した、それくらいのイメージだ。「大げさだよ、冗談じゃないよ、のだくん」と
またつっこまれそうだが、でもまあたしかにいじられたがりのTさんを喜ばせる
ために誇張したけど、5割ならそう外れてないだろう。だってベーグルサンドを
食べたあとに日替わり焼き菓子を追加するのが基本スタイルだったし、
なんならサンドを2個たいらげてから焼き菓子も2個というパターンもあった。
珈琲にしてもよほど時間的な余裕がない日をのぞけば毎回おかわりして
くれたのだ。さらに書くと、水出しアイス珈琲をたてつづけに3杯、ほぼ一気
飲みして我々をびっくりさせたこともあったし、けっこうなボリュームのカレー
とHUTTEプレートをつづけざまに完食した「事件」は、そのあとしばらく
我が家の話題というかネタになりつづけたのだった。
大食いって、みかたによっては「味わう」よりも「消費」が前提で、なんとなく
卑しさみたいなマイナスイメージで僕らは捉えてしまう行為だけど、Tさんの
場合はそんな雑な姿勢がいっさい感じられなくて、差し出したもの一つ一つ
をものすごく味わってくれたし、食べ終えたら時間をかけて選んだ言葉で
肯定的な感想をくれた。作り手としてこれほど勇気づけられることはない。
「ただ好みだから、たくさん食べる」という、さしだす側とうけとる側の、
シンプルで幸福な関係がいつのまにかできあがっていたことに僕は
気づかされ、そのかたいっぽでいられることに深く感謝した。
キッチン班も声にこそあまり出さなかったけど、Tさんをむかえたときには、
その信頼を意気に感じているのが表情によく現れていた。Tさんの肯定、
承認は僕らにとっての原動力であり、創作の意欲をかきたててくれる火種
だった。
#1に記した「生き返った」男性のエピソード。僕をいつも励ましてくれるこの
記憶の主役がTさんである。あれから5年経つけけれど、Tさんはきっと今日
もかわることなく、僕らになしたのと同じようにどなたかの人生を支えている
ことと思う。その人の毎日に欠かせぬライフラインとして。
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